確率は信じられない?僕たちは固定観念に生きている!/「神さまとのおしゃべり -あなたの常識は、誰かの非常識-」(さとうみつろう)
若生悠矢@spectiveprophetです。
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宝くじが当たる確率と当たるかどうかは違う
「宝くじが当たる確率」と「実際に当たるかどうか」は全く関係がない。僕は数学をやっていたからか、実は感覚が分かる。
みんなはどうだろう?
宝くじを1枚しか買わない場合と3000枚買った場合、当たる確率は変わっても、当たるか当たらないかは変わらないのだ。
神さまは、こう言う。
「確率」という表面上の言い訳を添えて、「そうしたほうが当たる」と信じただけ
たくさん買ったほうが当たる」と、確率という数意を信じて生きとる
宝くじが当たる「確率」で語るなら、100%以外は信じることができない。
でも、宝くじが「当たるか当たらないか」でいったら、当たると信じていた方が、人生が楽しくなりそうだ!
普通に生活できているのは観念という便利機能のおかげ!
観念というのを簡単に説明すると、「なにか」と「なにか」をお前が勝手にくっつけて、それがくっついたままになっている状態のことじゃ
観念とは深層意識のことなのだが、観念がないと人は生きていくことができない。
お金を稼ぐのは難しいと信じているとしよう。本当は「お金を稼ぐ」と「難しい」は全く関係ないのに、この関係ない2つのことを固定化してしまうのが、固定観念である。
「床」は「硬い」、「天井」は「落ちてこない」、というようなことを始め、僕たちが生活をしているなかには自動的に願い信じて、叶っているものがたくさんある。むしろそれがないと生きていけないのだ。
しかし、それらにいちいち感謝していたら、それはそれで人として危ないし、疲れてしまうように思う。
他人の信念みたいなものを聞くとき、これら観念の捉え方というのが、その人と付き合っていけるかの大事な要素になってくる。
例えば、毎日「空」が「青い」ことに「感謝」しましょう!的なことを言っている人のことを、「なんだこの人?」と思うか、「ああ!この人素敵!」と思うか、わりと分かれるのではと思っている。(どっちが悪いと言ってるわけではない)
実際のところ、個々では無関係な言葉の組み合わせで作られた**「固定観念」が個人の世界観を作っている。
また、自分を不幸にしている固定観念に気付いたとき、その固定観念を変える勇気や余裕があるかないかが、幸せになれるかどうかの分岐点になると思っている。
(つづく)