ゆぶろぐ

復活します!

自由を獲得するためのコミュニケーション

若生悠矢@spectiveprophetです。

今日は、これからのコミュニケーションについて考えた。

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「コミュニケーション」と「自由」

「コミュニケーション」と「自由」、この2つの言葉が並んでいることを理解できない人もいるだろう。

なぜなら、コミュニケーションの目的が自分らしさを得て自由になることだとは思われていないからだ。

コミュニケーションは承認が目的だった

コミュニケーションといえば、承認を得るための条件を満たすまでの取引(主に会話での取引)のことだと思われている。常識だろうか。

しかしかつてのように、お上に承認されればお金がもらえるような単純な場所は徐々に少なくなってきている。

むしろ、君が欲しがっている承認を与えるからタダで働いてくれ、みたいな、承認を得ても生活できないし自分の好きことも言えないし、全く良いことがない場所が増えてきている。

このように、承認を目的としたコミュニケーションで生きていける場所は減ってきていて、その上、本来コミュニケーションでしか獲得できない自分らしさや自由を失い、人生そのものに失望する人が増えている。

拙い例だが、芸術家や芸人が貧乏でもやっていけるのは、それしかできないとか、心が強いのではなく、自分らしさや自由が自分を支えているからに他ならない。

そうではない一般人にしてみれば、もはや今はコミュニケーションの暗黒の時代だとも言える。

タイプがわかればうまくいく! コミュニケーションスキル

前世代から受け継いだコミュニケーションを変化させるとき

僕たちは、お上に承認されれば良いことがあると教え込まれていて、前世代からの歴史を受け継いで生きている。だから今の時代にも少なからずいる自由な人を革命児のように扱うのだ。

歴史を受け継ぐことが間違っているとは思わないけど、その受け継いだことが常識となり、承認が得られず生活がままならないことに心を病んだり死に追いやられる人が出てきている

こんななかで、他人の承認がなくとも自分らしさや自由を失わずにいられるようになれば、承認や報酬に囚われずに生きていくことを受け入れられるようになるかもしれない。その鍵がコミュニケーションであり、変化させるなら今しかない。

自分の小さな「箱」から脱出する方法

阿吽の呼吸しかない日々を振り返る

他人は自分ではないのだから理解されないのが当たり前だ。理解を求めてしまうのは、子どもの頃から植え付けられている理解されることが正しいという価値観のためだ。

人ひとりひとりの理解の幅など限られていて、例えば家族のような密室のなか、コミュニケーションがお互いの理解を目的とするならば、ほぼ毎日同じようなコミュニケーションをし続けることになるだろう。

自分の子どもの頃なんかを思い出しても、家族との生活が阿吽の呼吸しかない日々だった気さえしてくる。

学校や会社のなかでのコミュニケーションも、これに近くなっていないだろうか?一度受け入れられた行動を、ひたすら繰り返してはいないだろうか?

職場のコミュニケーション 改善の処方箋

承認を捨て、自由になることに価値を与える

自分のことが理解されないのはあたりまえであり、相手のことを理解しなくてもいい。

「自分がこういうことを言ったら相手はこう思うに違いない」と、相手のことを理解しようとするコミュニケーションのスタイルが、自分らしさ、自由を失わせる。

自分のことが理解されないのはあたりまえであり、そんなことを考えることなく自分のことを言えなくては、本当の自由は得られない。

自分にとっては、自分らしさが必要か?好きなことを言うような自由は必要か?という議論は必要ない。前提条件だからだ。

僕たちの世代が、コミュニケーションのあるべき姿の変化の間だとするならば、前時代を意識して意図的に変化させなければ、変わることはできない。嫌な役割を与えられた世代とも言える。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

個人的な目標

僕はこのブログを自分の自由を獲得する場所にしたいと思う。

そして特にこれから出会う友人には、僕に対して好きなことを言って欲しいし、僕のことを好きなように理解して欲しいと思っている。