ゆぶろぐ

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「死ぬのがこわくなくなる話(星海社FICTIONS)」(渡辺 浩弐)

 「死ぬのがこわくなくなる話」として、作者がTwitterでつぶやいたものをまとめた小説、です。

 

 最初に、これは書評ではなく、本を読んだことを思い出して書くブログだと思います。



 ここで紹介する本については、「おもしろかったので、ぜひ読んでみてください。この本についてお話しできたらうれしいです。」ということが、すべてだと思っています。とはいえ、おもしろかったです、ではブログにならないので、読んだことを題材に、書いてみようと思います。

 それとブログを書くときは本を読み返したりはしないので、引用することはしません。誤読があるかと思いますし、ネタバレが書かれてしまう可能性は大いにあります。紹介した本を読む予定の方は、理解したうえで読んでいただけると幸いです。



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 死ぬのがこわくなるなるために、僕はなにをするだろうか。なにをしていきたいだろうか。

 たとえば、死ぬことを前提に生きることを肝に銘じる。毎日死にたいと言いながら生き続けて、いつのまにかそれが実現する。

 これは常に死ぬことを意識して生きるということを言っているのですが、きっと僕は、死ぬことが本当にわかってしまったら、怖くなると思います。

 僕には前もって死ぬことを意識するというのは、本当の意味では不可能であると言えます。



 それでは、死ぬ準備をしながら生きるというのはどうだろうか。

 その準備としては、荷物を整理しておくこと。荷物=物(モノ)については、死ぬ準備をするという意味では、必要最小限のモノを所有するように生きるのが賢明かもしれません。

 次に情報、本や音楽、映像などの情報については、モノの所有を最小限にするということを考え、デジタルデータに変換する。そしてシステム的に見られたくないものを自分しか見られないようにしておく。

 本や音楽や映像は今の技術を使えば、デジタル化してインターネットに保存しておくことで、アクセスできる人は僕と、(サービス運営上アクセスしないことになっているが)それを運用している組織だけとすることができる。

 僕が死んだ後にそのアクセス権をどうするかは、組織に依存することになります。パスワードなどをオフラインに保存していまわない限りは、少なくとも知られたくない人にたいしては、それなりに守ることができそうです。

 まあ、エロ系のネタ以外に隠したいと思うものはないけど。いっそ死ぬことを前提とするならエロもどうでもいいです。こんなのをもう、って思ってもらえれば……。

 と、話を変えて、生きた証を記録しておくというのも、死ぬための準備といえるかもしれません。

 行動を記録しておいて、死んだ後にも僕が生きていたのだということを残しておく。Twitterとかブログでインターネットにデジタルデータとして記録したとすると、そのデータは改竄される恐れがあるということを除いて、データが削除されない限り生き続けるだろう。

 僕は公開しているわけではないが、日常的にGoogleカレンダーを使ってライフログ的なものを取っています。また考えたことの一部はTwitterやブログに書いている。これらを生き甲斐にしているということはつまり、生きている間を残し、死ぬための準備をしているという解釈ができるかもしれません。

 そのほかには、ここでモノを増やすことになるのはさきほどの話しに反しますが、(僕はうまく書けていない)日記帳に書く記録。ライフログとはリアルタイム性で異なるので、死ぬための準備としては心許ないけれど、自分のことを残す手段としてはあり得ると思います。

 心許ないというのは、数秒後に死ぬ可能性までせっぱ詰まった場合に、残っていない記録があることを悔いるか悔いないか、ここまでいくと生きたことへの執着かもしれません。

 僕に執着心があるなら、このブログも延々とTwitterにアップし続けるという方法もありますが、そうしませんでした。最近僕がブログを始めたのは、なにか心境の変化があったのかもしれませんが、いまのところよくわかりません。



 そしてまた他の視点で、生き続けることは常に死に続けていること、と捉えてみます。

 細胞は数ヶ月単位でまったく新しい細胞に生まれ変わり続けている、つまり細胞は死に続けているという生物学的な事実もあります。しかし細胞はさきほどのモノの考え方に近いと思います。必要最小限のモノのひとつが、生まれ変わり続ける細胞。

 戻れない時間を過ごした自分を振り返ると、その時間の僕はもう死んでいるということもできる。これを書いている僕が認識する過去には、当然書いていなかった僕は存在せず、書いていた僕が死んで、まだ生きながら書き続けていると認識して、書いている。

 でも5秒後になにをしているかわからない。実はいま、2行前の文を修正したのだけれど、それは5秒前には何をするかわからなかった。

 こうやって死にながら、生き続けて、いつか生き続けられなくなるときを待つことになります。

 究極的には、死ぬことを記録しようとして死ぬのでしょうか。

 手塚治虫とか芥川龍之介江藤淳は、最期まで書き続けたくて苦悩していたと言われていますので、感覚的には近いかもしれません。





 「死ぬのがこわくなくなる話」を読み終えて、数時間経ったあその僕の思考を書き下してみました。

 

 死ぬときには、まだ生きたいと苦しんでしまっても、わずかでも幸せなことを感じながら、死んでいきたいと思いました。