何をするかではなく、何に心を傾けるか。『優雅な肉体が最高の復讐である。』(武田真治)
若生悠矢@spectiveprophetです。
武田真治が自伝と共に自身の肉体作りについて書いた本『優雅な肉体が最高の復讐である。』を読んだ。
本書の言いたいことを簡潔に捉えるなら、タイトルの元ネタとなっている『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィントムキンズ著)に書かれている、武田真治も一部を引用している次の一節だろう。
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「人生のじぶんでこしらえた部分、非現実的なところだけが好きなんだ。ぼくらにはいろんなことが起きる――病気とか誕生とか、ゼルダのプランジャン入院とかパトリックのサナトリウムとか義父ウィボーグの死とか。それらが現実だ、どうにも手の出しようがない」。すると、スコットが、そういうものは無視するってことかい、と聞いてきた。だからこう答えた。「無視はしないが、過大視したくない。大事なのは、なにをするかではなくて、なににこころを傾けるかだとおもっているから、人生のじぶんでつくりあげた部分しか、ぼくには意味がないんだよ」
僕は筋トレやランニングをしていることを誰にも言わなかった。やっていることなんてどうでもいい。意味があるのは自分で作り上げた自分の姿だけだ。
このブログでも筋トレのことを何回か書いていているが、なぜ筋トレなんかを始めたか、正直よくわからない。
今は自分の意思で自分のためにやることを増やしてきているが、当時は肉体作りくらいしかなかった。
「我慢じゃなくて努力する」と武田真治はいっている。我慢して苦しいことは楽しいことではないが、努力することは楽しいといってもいいし、楽しく努力することができる。
我慢して苦しいことをやるには理由が必要になるけど、楽しく努力することに理由はない。筋トレもランニングも、なんの理由もなくやってしまう。
だから冷静になると、なにやってるんだろうと思う。でも、再度引用すると、こういうことなのだ。
大事なのは、なにをするかではなくて、なににこころを傾けるかだとおもっているから、人生のじぶんでつくりあげた部分しか、ぼくには意味がないんだよ やっぱり自分の体を感じれば、やって良かったと思える。
僕にとっては、自分が思い描く体づくりに心を傾けたことに意味があって、筋トレやランニングそれ自体に意味を見出せなくても良いのだ。
体づくりに限らず、自分が思い描いたことに心を傾けることに意味があって、どうやってそれを実現するかに意味を持たせなくてもいい。その実現方法は色々あるし、むしろ1つの方法に執着しない方が思い描く自分に近づくことができるだろう。
(おわり)
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